2020年1月2日
第1回浅草サンバカーニバルの記録 昭和56年
第1回浅草サンバカーニバルは、1981(昭和56)年8月29日土曜日に行われました。
雷門の前に櫓を組み各チームが順に舞台上に上がってくる演出で、東京12チャンネルで「仮装サンバコンテスト」としてテレビ中継された記録が残っています。
多くのチームが主催者側が用意した音源にあわせて独自のダンスを披露する形態でしたが、その混沌の中に、日本サンバ黎明期の爆発的なパワーが感じられるものでした。Portelaが招聘されており、すでに第1回からリオ・デ・ジャネイロのカーニバルに範をとる現在の浅草サンバカーニバルの方向性の礎が築かれていたとも言えるでしょう。
バルバロスは、第1回浅草サンバカーニバルには『仲見世エンコサンバスクール』というチーム名で出場しています。この“エンコ”というのは、池袋をブクロ、上野をノガミなどと呼んだように、当時の浅草公園六区のことを指す隠語。インターネット普及前であった1980年代は、資料も知識も乏しく、サンバってまあこんな感じだろっ!と仲見世商店街のドレス屋さんから金色の布を譲り受け、各自衣装らしく仕立てたり、ただ身体に巻きつけただけの人もいたようです。隔世の感がありますが、現在、そして未来へと繋がるはじめの一歩です。
by 松の字
雷門の前に櫓を組み各チームが順に舞台上に上がってくる演出で、東京12チャンネルで「仮装サンバコンテスト」としてテレビ中継された記録が残っています。
多くのチームが主催者側が用意した音源にあわせて独自のダンスを披露する形態でしたが、その混沌の中に、日本サンバ黎明期の爆発的なパワーが感じられるものでした。Portelaが招聘されており、すでに第1回からリオ・デ・ジャネイロのカーニバルに範をとる現在の浅草サンバカーニバルの方向性の礎が築かれていたとも言えるでしょう。
バルバロスは、第1回浅草サンバカーニバルには『仲見世エンコサンバスクール』というチーム名で出場しています。この“エンコ”というのは、池袋をブクロ、上野をノガミなどと呼んだように、当時の浅草公園六区のことを指す隠語。インターネット普及前であった1980年代は、資料も知識も乏しく、サンバってまあこんな感じだろっ!と仲見世商店街のドレス屋さんから金色の布を譲り受け、各自衣装らしく仕立てたり、ただ身体に巻きつけただけの人もいたようです。隔世の感がありますが、現在、そして未来へと繋がるはじめの一歩です。
by 松の字