2012年5月2日
1997年、ブラジルに渡ったバルバロスのバンデイラ。
昭和58(1983)年、神戸市在住の山田芳信氏と清村仁司氏が中心となり、「日本サンバ振興会 (旧名 関西サンバクラブ)」が設立されました。、「日本サンバ振興会」は、サンバ振興のためのボランティア団体として、昭和58年の創刊号から平成16年刊の33号まで「サンバ通信 (RODA de SAMBA)」 という情報誌(毎回4000部発行/無料)をを発行していました。サンバ通信の編集作業は、全国に点在するサンバチーム探しから始まり、各地のサンビスタの寄稿や写真、情報提供の協力のもと手作りで行われました。まだパソコンやインターネットも普及していなかった頃のこと。当時の日本のサンバ界のことを知るための資料は少なく、とっても貴重なもの。
今日はそのサンバ通信の中から、平成10(1998)年発行のNo.27に掲載された記事を紹介させていただきますね~
カルナバル万歳
バルバロス、メストレ・サーラ 中島洋二
ブラジル各地で毎年開催されるカルナバル、なかでもリオとサンパウロのカルナバルが世界中の話題を集めるのはその華麗さと規模の大きさが圧倒的で他とは比べものにならないからだ。カルナバルの日は毎年異なっており、春分の日(3月21日)の直後の満月を過ぎた最初の日曜日にキリストの復活祭と定め、その日から逆算して44日前をカルナバル開始日とし、その日から4日間ブラジル国民は歌い踊り、飲み明かすのである。ところで各エスコーラ(サンバチーム)は何をかけて壮絶な闘いに燃えるのかといえば、それは優勝賞金ではなくエスコーラの名誉なのだ。そしてそのエスコーラの象徴・シンボルとなるのがバンデイラ(旗)だ。
Mestre-Sala&Porta-Bandeura(メストレ・サーラ&ポルタ・バンデイラ)どこかで聞いたことがあるかもしれないが、この2人こそエスコーラのシンボルであるバンデイラ、そしてパレードそのものを観客に紹介する重要なダンサーなのである。
1997年9月28日、僕はカルナバルを半年後に控えブラジルへ渡った。もちろんリオもしくはサンパウロのカルナバルにメストレ・サーラ&ポルタ・バンデイラとして出場したいと思ったからだ。それにはエスコーラのクアドラ(練習場)をたずね、踊ってみせなければならない。そこでプレジデンチ(主宰・会長)に認めてもらうことが出来て初めてパレードすることが許されるのである。
10月になりパートナー(ポルタ・バンデイラ:石黒路子)がバルバロスのバンデイラを持ってブラジルへやって来た。それはから僕たちは毎週末、エスコーラのクアドラを踊って廻った。初めて見る日本のバンデイラ、日本のメストレ&ポルタに、どのエスコーラも「日本にもサンバ、カルナバルがあるの?」と不思議そうに尋ねるので、「見てくれ!このバンデイラ、日本にもエスコーラそしてカルナバルがあるんだよ」とその度に胸をはって応えた。
新聞やテレビの取材にも、バルバロスのバンデイラは“ブラジルに渡った初の日本のエスコーラ”として大きく扱われた。そんな噂を聞いてサンパウロのVAI-VAI(ヴァイ・ヴァイ)というエスコーラから「是非うちでパレードして欲しい」と、夢のような話が舞い込んだ。しかも我らがバルバロスのバンデイラで。勿論ふたつ返事でOK、だって本場ブラジルでパレードできるだけでも素晴らしいことなのに、僕たちのこのバンデイラでなんて、この先二度とないだろうと思ったからだ。そして幸運にもリオではGRANDE・RIO(グランジヒオ)というエスコーラでパレードできることがこの後に決定した。
この時すでにカルナバルまであと2カ月となっていたので僕たちは慌てた。なぜならもっとダンスを練習する必要があったからだ。その日から僕たちは暇をみつけてはコパカパーナの海岸沿いで特訓をすることにした。エドワルド(Santa-Cruzのメストレ・サーラ)が僕たちの先生となり細かく指導をしてくれた。二人ともなかなかうまく踊れず、よく彼に怒られ本当に苦労した。あらためて本場の厳しさ、難しさを噛みしめ「エスコーラのシンボルをもって踊るという事は、責任重大なんだ」と痛感した。
1998年2月21日(土)、待ちに待ったカルナバルがやって来た。当日にサンパウロ入りした僕たちはまず衣装合わせを済ませ(事前に採寸してあったが見るのはこの日がはじめてだったので感動した)そして高まる鼓動を抑えつつ出番を待った。
VAI-VAIは9番目なので明け方5時50分くらいにパレード開始のはずだったが遅れて、僕たちが踊り始めたときはすでに時計の針は午前6時をまわっていた。空に割れて飛ぶ花火、金、銀、色とりどりの紙吹雪、大地を揺るがすバテリア(打楽器によるサンバの演奏)、階段席を埋めた観客の歓声を聴いて、全身に鳥肌が立ち“バルバロスのバンデイラがブラジルの空に舞っている”と思っていたら800メートルもあるはずのパレードがあっという間に終わっていた。
翌2月22日(日)、急いでサンパウロから戻った僕たちは僅かな休息の後に、GRANDE・RIOのパレードへと向かった。疲れている筈だが二人とも衣装に着替え、メイクを済ますとアドレナリンによって眠気と疲労は何処かに消えてしまった。深夜の12時を過ぎてやっと僕たちのパレードがスタート、観客はすでに大興奮状態。僕たちも靴がボロボロになるまで練習したことやGRANDE・RIOのクアドラで明け方まで踊ったことなど、この半年間にあった様々な出来事を走馬灯のように思い出して感無量状態。あとは精一杯ベストを尽くすだけと思い、声のかぎりエンヘードを歌い、そして踊った。
98年のカルナバルを僕は一生忘れない。そしてバルバロスのバンデイラもあのブラジルの空の青さを、決して忘れることはないだろう。
僕は叫びます。皆さんも一度ブラジルへ、そしてカルナバルへ行ってみてください。大地を揺るがす一糸乱れぬバテリアの轟音。あとからあとから続乱舞する男女。華麗で壮大な山車。必ずあなたも鳥肌立つ興奮をおぼえるはずです。
1998年発行 サンバ通信No.27より転載
Mestre-Sala & Porta-Bandeura Yohji&Michiko (1997~1998シーズン)
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